輪島を能登を襲った大地震から5か月がたち、緑鮮やかで初夏をも感じさせる6月となりました。
振り返りまとめて記録します。
令和6年1月1日 午後4時10分 能登半島地震発生
1月は車の中での避難生活でした。
ありがたいことに、うちの車は家族分と会社の計4台が家屋の下敷きにならずに助かり、使用可能でした。
その頃は、屋内で片付けをしていると余震の度に外へ飛び出していました、さらなる倒壊の危険がありました。外へ出ると近所の家からも皆飛び出してきていました。車の中は狭く不自由でしたが、外の広い駐車場に停めていたので、余震でも上からつぶされる恐怖が無く、寒いけれど心は快適でありました。
車中では段ボールやプチプチや、布団を使っていましたが、1月中旬頃にアルピニストの野口健さんが、ボランティアで輪島を支援してくださり、車中泊の市民に登山用の寝袋を配ってくださると聞いて、我が家も並んでいただいてきました。一流の登山用ブランドのふっくらとした寝袋はとても暖かく、大きさも余裕があって布団がずり落ちることも布団からはみ出すこともなくなって、ぐっすりと眠れるようになりました。それでも1月末ころには、体が痛くなり車中が窮屈になり、余震が随分落ち着いたので、屋内に戻る決意をし、比較的無事そうに見える玄関で暮らすことにしました。玄関暮らしも工夫をこらし、家族で何でもできるね!とありがたく日々を過ごしていました。
役所の様々な支援の手続きをする中で、輪島に仮設住宅が建つまでの間の仮住まいができる制度が始まり、申し込みしていましたが、希望する被災者の数が多いのでなかなか順番が来ませんでした。その話を金沢に住む弟にすると、知り合いの住宅メーカーさんに聞いてくれて、アパートを見つけることができました。
2月1日 金沢のみなし仮設住宅に入居。
金沢に住むもう一人の弟が手伝ってくれて、ハイエースに一台分ほどの簡単な家財道具で、アパートに引っ越し。何もないがらんとした部屋で、トイレがあり水が出る幸せをありありと感じました。
2月、3月は、忙しくて幸せ
家族の仕事を手伝う日々が続き、また輪島には役所の様々な手続きに行ったり来たりしました。忙しい日々は気がまぎれ、嫌なことは忘れる現実逃避の日々(笑)でした。
4月はつらかった
4月初めから、家族が順番に風邪をひき、くらーーい一か月を過ごしました。誰かが治ると次の人がかかる、、、。高熱は出ませんでしたが、頭痛が続き、咳がひどくてとてもひどかった(涙)岐阜県関市の友達が送ってくれた国産はちみつがのどの痛みを和らげてくれて薬よりも効いた気がします、ありがとう。
5月には二次審査
5月には、4月からすすめていた様々な復興のための支援制度の勉強が具体的になり、会社社屋の復活や自宅の再建などについて、関係する役所や機関に出向いて調整する。また、罹災証明の判定があまりに軽いと感じていた社屋について、輪島市に二次審査を申請しており、5月22日に河井町の社屋ビルが、5月28日に山本町の展示場ビルが、それぞれ二次審査があった。建物内のすべての部屋と外観を調査するため、河井町ビルは3時間、山本町展示場ビルは2時間かかった。この二次審査が終わるまでは、建物を大きく触ると地震後に壊したことになるため何もできなかったが、やっと終わったので、片付けや中の輪島塗の取り出しのために大破した建具をずらしたり壁を壊したりが出来るようになった。長かった。
ボランティアさんに頼んで、1棟残った倉庫の掃除をし、全壊の社屋から輪島塗その他を運ぶ準備を始める。ボランティアさんが様々な地域から6名来てくださり、昼休憩を含め9時から3時まで汗を流してくれた。晴れた良い天気で暑かった。気が付けば顔と腕の肘から下が、真っ黒に日焼けした(笑)
6月1日に二次審査の結果が
二次審査の結果は、審査から2~3週間後に郵送されてくると聞いていましたが、6月1日に、封書がとどき、思ったよりずっと早くて驚きました。
河井町の社屋ビルの1次審査は「一部損壊」でしたが、二次審査の結果は「中規模半壊」。地震後1月末はこのビルの玄関で寝泊まりしていましたが、余震の度に大きく揺れ、壁が落ちて怖かったことを思い出します。これで一区切りです。このあとは復興に向けて進めることができます。
◎現在の輪島の様子
輪島市内には、沢山の仮設住宅が建設され、入居が始まっています。
学校の校庭や、公の駐車場や、休耕田や、あちこちに所狭しと建てられています。まだ避難所や車中泊の方もあるそうです。
仮設住宅には入ってすぐ生活が出来るように、窓にはカーテンがかかり、テレビ・洗濯機・冷蔵庫が備え付けられ、一人分(一人暮らし用の仮設住宅)の食器や調味料が配給されていました。ありがたいことです。
家族全員、元気にしています
私達は現在、おかげさまで、金沢市内のアパート(みなし仮設住宅という制度)に仮住まいしています。知らない土地でしたが、いまでは少し慣れて、おうちの犬のお気に入りの散歩コースもできました。近くの健康ランドに行くと、避難や仮住まいの輪島の方に良く出会います。「ご無事で何より、、、」と会話が始まります。
のと里山海道は通行可能です!
輪島へつながる自動車道「のと里山海道」は、地震当初は不通で緊急車両も通ることができない状況でしたが、まだまだ砂利道やでこぼこがあるものの、沢山の現場の方々の尽力で、約2時間ほどで金沢と往来することが出来るようになっています。
車で走ると、輪島が近くなるにつれて、がたがたガタガタの連続で、内臓がかき混ぜられているような感覚になりますー(涙)
JAFさんが、タイヤのパンクの件数が普段の3倍になっているとニュースで言っていました。
のと里山空港も、東京から毎日飛行機が行き来しています!
名勝・千枚田も活動再開しています
輪島の風光明媚な「千枚田」は、一部ですが田植えがなされたそうです。そういえば、いつの間にか、目にも爽やかな新緑の季節が到来しているのですねー。
田んぼのあぜ道が、いつもより草が多いように感じました。皆さんまだ町に戻られておらず、手が足りないのだろうなーと思います。
輪島の海は海底がもちあがった!
輪島の海は、地震で海底が隆起し、これまで海の底だったところが見えるようになり、海岸の風景は一変しています。家族で良く釣りに行った門前町の堤防は、海面から4メートルも隆起したそうです。
しかし、この隆起のおかげで、輪島には大きな津波が来なかったそうです、有り難い。有り難い。輪島の真ん中を流れる川は、川底がところどころに見えるようになり、なんと緑の草が生えています。
ありがとうございます。心より感謝申し上げます
ここまで、沢山の方々のお力をお借りし、助けを頂いてきました。ありがとうございます。まだまだ全く変わらない状況に見えますが、ことが大きすぎて個人では難しいことが多々あります。しかしながら、気持ちは明るく、何とかできるように感じています。これまでこんなに長い休みを経験したことはありませんでしたが、この際立ち止まって、さまざまに思いを巡らし、考えて、新たに歩を進めたいと思います。
ありがとうございます。
これより前の記録はここにあります。地震当日のことは、書けるようになったら後日追記します。
全国を行商して歩いた祖父・父は、旅先で大変可愛がって頂き、現在でも祖父・父を知るお得意さまが多数ございます。
祖父・父は、「物がなくても売る」達人 営業マンでした。
お客様の前で輪島塗の器の仕上がりのイメージを、すらすらと絵に描いて見せ、仕上がった見本が無くても注文を取りました。器の形や色、蒔 絵・沈金の模様まで、その場で細かくうち合わせができ、仕上がった品は、大変お喜び頂いたそうです。
私もそうなりたいと、自己流ながら勉強し、輪島の技法の全てを頭にたたき込み、
お客様の求める物のイメージを形にしたい、と思っています。
現在は、器物の 形から、蒔絵・沈金の図案までお客様のご要望に合わせ、
自分で作図して制作にあたります。
頭の中で見える仕上がりの姿を、木地師から蒔絵・沈金師に細かく 指定し、
喜ばれる、そして末永く愛して頂ける輪島塗を生み出していきたいと考えております。
輪島漆器商工業協同組合 組合員
石川県輪島漆芸美術館 友の会 事務局長
合気道 奥能登合氣会 会長
輪島漆器大雅堂 代表取締役