令和6年1月1日輪島に大地震 それからを記録する

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令和6年1月1日のこと

思い出せば、令和6年の正月は、冬の北国では珍しい穏やかな暖かい日だった。雨が降っていた。社長は最古の輪島塗とされる古い扉が保存されている輪島市の重蔵神社の氏子総代の1人で、一日の深夜0時の神事に合わせお宮へ参上。午前2時頃帰宅し就寝。

朝いつもより遅くまで寝かせてくれた愛犬2匹の柴犬と散歩。先住のオス8歳と新入りのメス5ヶ月は、まだ先住の先輩の許しが出ず、犬猿の仲。なので散歩は別々。

その後朝食に雑煮。輪島の雑煮は丸餅で出汁で煮て醤油味に。うちでは昆布とあごのかつおの出汁。あごというのはとびうお。6月頃の旬に取れた飛魚を、うろこ頭内臓をとって大鍋で茹でる。茹でたら身が縮まって、開いて背骨と薄腹の細い骨と尾を取るそして天日や扇風機乾燥機などでカラカラに乾燥させて出来るのがあごのかつお。手間のかかる手作業で作るあごのかつおは高級品。そのままぽりぽり
あごのかつおは漁師の奥様の季節的副収入だったが現在は作る人は激減。惜しい。

あごのかつおと昆布のだしで煮た雑煮の餅をおせちと共に、社長は3個私は1個+ご飯を食べて、正月1日から食べすぎやろと笑う。
午前10時から初詣の宮当番に社長が出発。

筋トレ大事
備蓄大事

令和6年1月2日のこと

被災2日目、夜真っ暗街灯なし

 

令和6年1月3日のこと

被災3日目朝街灯ついている誰かのねずの作業のおかげ

3日目の朝 小雨で気温は高い
1時間おきにうとうと寝たり起きたり車中では体が痛いが2匹と子供2人で寝る。これはこれで皆の寝息が聞こえて安心する。暗いうちから目が覚めて、記録を開始した。
6:53震災3日目公園で犬の散歩から始める外でううううんと体を伸ばす。
よがあけると公園に止まっていた車は半分に減っていた。皆行くところがあるのだろう。復旧の1日が始まる。
雨の中ブルーシートの下で親子でおせちやタイのかまぼこカップ麺を食べた。みんな一緒にいられる幸せを実感。さあ行こう。
まずは雨のため軽四2台に渡してかけていたブルーシートの天井を外し、車3台で家に向かう。2匹と娘を乗せた一台を公園に残そうかとも考えたが一緒に居ようと決めた。社長と息子は住まいの一階が押しつぶされ傾いた2階に侵入を試みる。生活の全てがそこにあったからだ。中庭からベランダへ登り窓から入ったらしい、私は怖くて見ていられず祈りながら通路確保に専念していた。
息子が仕事に使うPC大丈夫やった、と笑顔で戻り、安堵。その他大事なものを少し救出してくれて助かった。ありがとう。
私は部屋の四方がうんと下がった台所で老眼鏡を見つけた。やっとスマホの文字が見える。
スマホは、おかげさまで電気が来ている家で娘が皆のスマホを順に充電してくれていて使うことができる。もっとも日中は首からぶら下がっているだけで、見る暇はないし、お陰様で家族一緒だから連絡も無い。
何時頃か母と弟が軍手で手伝いに来てくれた。弟は正月に帰省して実家にふたばん泊まる予定だったが、まだ帰れそうに無い。しかし独居の母と一緒にいてくれて本当に良かった。地震が来る前は、夜はうちで、宴会しようと約束していたのだったが、こんなことになるとは。悪い夢を見ているようだ。でもまだ余震もあるしまた頼むときはよろしくち、帰ってもらう。2人は会社近くの上の弟の家に身を寄せている。新しい家は耐震がなされて無事のようだ。電気水道は不通。
片付け再開。家の中は壁が落ち食器は散乱し、石を敷いた玄関やコンクリートの土台は亀裂が入りまあ見事にめちゃくちゃ。
今日はレジャー用のござを通路に敷いて、作業開始。土足でどんどんよごれて行く家は見るに忍びない思いだから。雨だから。
あっちもこっちも順に少しづつ片付けて気がつけば午後に。休憩して何か食べよう、と台所から椅子を持ってきた。
また片付け再開
あっという間に気がつけば日没。
昨日は公園に泊まったから夕方には真っ暗で夜が長かったが今日は電気がついている家での作業なのでまだできる
午後7時頃か、今日は終わりにしよう、と提案。どこまでも際限ない。玄関と続きの倉庫で居場所確保が目的だったがまあうまく進んでいる。缶ビールでも飲もうよ。余震のたびに外に飛び出すので、玄関は開けたままで寒い。ストーブをつけて、お湯を沸かしアルミホイルを広げて冷凍室のしゅうまいと缶詰を焼いて食べた。美味しいねーー
缶ビールを3本飲んで談笑する間に2度も自衛隊さんがきちんと並んで固まって、通って行く。ありがとうございますと声をかけたら、中に社長の姪のご主人がいてびっくり。正月3日に会う予定だったがこんな形になるとは。
短く会話し笑顔で隊列に戻る彼の背中に、頭を下げた。まだ就学前のかわいい女の子が2人いる。どうぞ気をつけて。ありがとう。缶ビールのおかげで全身の緊張が解けたようだ。今夜は息子の魚釣り用の軽四ワンボックスに布団を二組敷いて娘と並んで寝る。
久しぶりに足を伸ばし横になって寝るなーー、昨日は腰が痛い社長が寝た。息子は少し仮眠していたな。おやすみー、その後2秒以内に爆睡。

令和6年1月4日のこと

4日目。朝目が覚めてスマホを探し当て見ると5:30まだ真っ暗一気にグッと寝てスッキリした。
明るくなったら、活動再開まずはいつもと同じ散歩から。毎日目標を立てて始める。今日は鉄筋の上階を見てくる予定
気をつけてゆっくりやろう、どうせめちゃくちゃなんだから。
結局住まいにしていた2階から日用品や着替えや何かを取ってくるが今日の1番の仕事になった。
私は祈りながら、備蓄していた五目飯の缶詰を家族分煮ている。缶のまま熱湯で15分。時間がかかるので今までいつ度も食べたことがなかった。こんな日が来るとは。水の備蓄もあり良かった。
気がつくと、近くの高校の運動場には各地から救援の自衛隊さんの車両がいっぱいだ。ありがとうございます。若い隊員さんが笑顔を見せてくれてとても頼もしい。
東京で飛行機事故があったとネットで見た。年初から大変な年になった。特に急ぐことがないので遅い朝食の間に、うちの仕事場4階で作業する上塗り職人さんが来た。仕事場へ上がって戻るとグチャグチャやわ、と。私達はまだ上階へ行っていなかった。この鉄骨造りの仕事場の4階は上塗り職人さんが使っている。2階は輪島塗の半製品や木地の倉庫と息子の筋トレ道具が置いてある部屋がある。そして3階は社長の大事な合気道の小さな手作り道場がある。そういえば当時中学生だった娘と私達夫婦で、元々は下地や中塗りの部屋だったのを、掃除して壁を塗って、鏡を設置し神棚を祀って手作りした奥能登合気会の道場。どうなっているだろう。道場の向かいの部屋には、子供たちが学生時代に東京で一人暮らししていた時の荷物を置いている部屋がある。いつの間にかその他季節のものやら何やらでいっぱいになってしまっている。朝食後に今日はそれら各部屋まで観に行くことに決まった。階段は崩壊した重い壁材天井材が大小入り混じって降り積もっている。もう量的に取り除くのはやめて隅におしやることにした。社長が上へ上がる。ガンガンガンガン、バラバラバラバラが繰り返し聞こえる。落ちそうな壁を落としている。しばらくしておりてきた。道場は意外と大丈夫だったらしい。そういえば住まいのように何か家具などがあるわけでないから良かった。荷物も大丈夫。安堵。後でいるものを見てこよう。次は台所を片付ける。1日の朝煮た加賀蓮根とごぼうと人参の煮物、卵8個で焼いた卵焼き2本が、調味料入れの砂糖とざらめと共に傾いた床に散乱している。寒いので虫が来ないから悲惨さは少ない。割れた陶器やガラスが危ないので注意しながら。後のことを考えてある程度分別し、外には濡れないようにして出しておく。ダンボールが濡れると持てなくなる。社長と私と息子で片付けを始める。余震で揺れたらすぐに飛び出せるように通路を確保しながら、作業する。今後は小さな住まいになるのだからこの際不要なものは捨てようとという私に、そんなことはわからない、せっかく割れなかった陶器やコップは全て取っておこうという息子。まあいいか。それにしても割れた陶器やガラスの中で、助かったのは輪島塗だ。先の地震の時にも感じたが今回もやはり木製で軽いためか、輪島塗が目立つ。重ねていた陶器やガラスの食器は大きく上下左右に揺れたことで自分の重みで割れたような感じがした。
いやあっちだ、やっぱりこっちから、と男チームのウロウロ加減にちょっとイライラする,
冷蔵庫も揺れで開いてしまい、ブリの刺身やかまぼこ、ゆず味噌など、割れてしまったガラスの保存容器と共にグチャグチャ。気に入って使っていた容器、いくつも割れてしまった。
炊飯器にたどり着いた社長が、米が入っているぞ。ああそうだった。ご飯を炊く予定だった。朝は雑煮だったから。早速コンセントを入れてみると大丈夫、ブレーカーは落ちない。おおおおお、ご飯炊くよ、いいねー。みんな嬉しい顔になった。昼は久しぶりに炊き立てのご飯が食べられる。うちは地震の後津波を警戒して高台でとどまっていたが、警報が解かれて降りてきた時から電気が来ていた。停電したのかどうかは不明。会社がある山手は今も停電しているそうだ。昼は温かいご飯と大好きなインスタント焼きそばをカセットコンロで作って食べた。温かいご飯は美味しくて、皆おかわりしてもりもり食べた。米は7分つき精米にしているから栄養もあり嬉しい。ご飯の後、母と弟が見に来てくれた。
だいぶ片付いたね。
まあまあね。
弟は明日金沢へ帰ると。時間はかかるが、行くことができるらしい。上の弟ぼ長男が大阪に帰るので金沢まで行く決心をしたらしく、母も連れて行くと。うん、その方がいいわ、お願いね。
話の中で実家も見に来て、となった。必要なものを持ち出して使ってくれと。私は見たくなかった。崩壊した実家とそこへ行く途中の街の姿を。社長と息子が行くことになった。息子はじーちゃんの碁盤と将棋盤、ばーちゃんの筋トレマシンを持って帰ってきた。社長は食料品を持って来た。
そしてその大荷物を会社の残っている倉庫に入れてくると言って出発。しかし途中のガソリンスタンドが営業して長蛇の列で前に進めない、と帰ってきた。その間に台所はずいぶん綺麗になった。
外は暗くなっていた。今日は冷凍室のお肉を食べよう。社長が言った。そうやね、冷凍室から片付けよう。またご飯も炊いた。焼肉と缶ビール、社長はウイスキーにお湯割り。今日も無事で良かった。美味しいわ、寒いけど。今は玄関で、戸を開けて食事、ぐらっときたらすぐ逃げられるように。風が寒い。日中は動いているしおかげさまで暖かい冬なので、厚着して頑張っているが、さすがに夜は寒い。少しプチプチを貼ろう。社長が会社から持ってきたプチプチの大きなロールを切って、長いのれんのように戸にふたをした。いいね、結構暖かい。そうこうするうちに、プチプチのれんから声をかける人がいる。見ると福井県の漆屋さんだ。地震のニュースに、駆けつけてくれた、今輪島に着いたところだと言って、パックのお寿司やカップ麺トイレットペーパーテイッシュなどを分けてくれた。大きなワゴン車は支援物資でいっぱいだった。気持ちが嬉しかった。まだ危なく道も万全でないのに。車中泊というので道が龍騎陥没していて危ないから、明るい道を通って安全なところにいてくださいと頼んだ。また仕事できるように頑張りますから。ありがとうございます。
今日は缶ビールを2本飲んで眠くなってきた。昨日よりも冷え込んでいる。
今日は運転席で寝る日。すごく寒い。昨日寝た社長と息子は寒くなかったのか?明日絶対に寒さ対策をしようと強く思う。
同乗の娘は平気だというけど。
窓が剥き出しだから寒いんだ。昨日寝た軽四は三方にカーテンがありフロントと運転席両横の窓は日除の銀色シートを貼って寝たからすごく暖かかった。今日はその用意を忘れて、薄い布団やカッパをかぶっても寒くて寝られない。でもガソリン温存のためにエンジンはかけずに我慢する。明日は絶対に対策するぞ、と心に決めていつの間にか寝てしまった。

令和6年1月5日のこと

5日目。寒くて目が覚める。4:38まだ真っ暗。トイレに行きたい、隣の車の社長を起こして連れて行ってもらう、ごめん。
トイレといっても、一階のトイレは2階に押しつぶされて大破。玄関のトイレは壁や天井が崩壊水の管も繋がっていない。ではトイレは?社長と息子で浄化槽の蓋を開け、釣りで岩を渡る時に使う頑丈な板を渡して、簡易ポットんトイレにしてくれた。少し怖いけれどでも助かった。ありがとう。うちはまだ下水に繋いでなくて浄化槽を使っていた古い家で助かった。何が良いかわからないものだと思う。街はまだ真っ暗。でもこの辺は恵まれていて街灯がつき、倒壊していない新しい家に常夜灯の灯りが見える。もう6:40次第に明るくなってきた。子犬が隣で小さくイビキを描いている。犬たちは何が起きたかわからないだろう。ただ家に帰りたがっているが、まだ足元が危なく我慢。もう少し待ってね。今日は家と車の寒さ対策を1番にしたい。来週は気温が下がるというから。うちの布団は斜めになっている2階から持ち出さないといけないので、実家からもらってこよう。やっぱり私が行かないとわからないか。まだ安否不明の方がいる街を見るのが気が進まない。

令和6年1月6日のこと

令和6年1月7日のこと

令和6年1月8日のこと

成人の日で祝日。本当なら、今日から輪島漆器大雅堂の新年をスタートする予定だった。社員全員で重蔵神社へ参拝し、仕事始め。夜は新年会の予定だった。

今年の新年会は、輪島の雰囲気の良い温泉ホテル・能登の庄で、会食の予定だった。輪島はこんな状態であるが、予約していたので、連絡しようとHPを見るとすでに休業の表示があった。

 

 

令和6年1月9日のこと

 

令和6年1月10日のこと

今朝5:30頃目が覚めて、車の外へ出ると、霜が降りで車体は凍り、ばりばりしていた。-2度だった。寒いわけだ。そういえば夕べ車に戻るときは、星がキラキラしていた、明日はよい天気だろうと思っていたな。