漆は約1万年前からあった日本古来の技術

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漆は約1万年前から日本にあった

縄文時代前期の遺跡から漆器が出土した。
北海道函館垣ノ島B遺跡の装身具(9000年前)と、石川県七尾市三引遺跡の櫛(6800年前)である。それも、どちらも朱塗りである。
朱漆は精製された漆に、朱の顔料(ベンガラ)を混ぜないと、朱漆にはならない。
生漆に混ぜただけでは、ただ単に黒くなってしまうのである。
朱塗りの漆器が出土したということは、約1万年も昔の日本に、精製の高度な技術が存在していたということである。
漆は、そのような昔から、人と共に歩んで現在に至っている。
日本には漆の自生木は無く、必ず人が住み・歩き・働く、その近くに、漆の採取を目的として植栽されてきた。
縄文の頃を考えると、現在使われているような塗装・整形機械などあるはずもなく、化学処理が行われる工場などは存在しない。
天然自然の環境と材料を使ってものを作っていた。
そこで「漆」である。
どのような経緯で人と漆とが友達になったのかわからないが、それは神はからいとしか考えられない。「人を助けよ」と、これが漆の命なのではないかと思えるほどだ。
法隆寺・玉虫の厨子に、捨身飼虎図があるが、我が身を捨てて虎を生かすお釈迦様のように、漆の木は、わが身を守る樹液である漆を人の為に差し出してくれるのである。
漆が存在することで、あらゆるものを接着し塗装し形造ることが可能となった。
絵を描き、彫り、磨かれる、、、。一つの素材でこのように何でも出来るものは、9000年前からこのかた、漆のみではないだろうか。
そして、その丈夫さは、折紙つきである。縄文の頃から現在まで、この長きにわたって存在し続けているからだ。
まさに、9000年(約1万年前)の実証である。
 

漆器は食文化を豊かにした

我々は、生きるために食する。
それは、命をいただいて、その生命力を自分の生きる力に変える事だ。
我が身を生かしてくれる食物には、感謝してもしきれないのである。
食材は、たぶん怒っている事だろう。
人間が勝手に命をうばうなんて、と。そしてその思いは、元の形がわからない程に調理されても、消えることはないのかもしれない。
食器は、その有難い食材を入れる器である。両手を合わせて水をくむ形。これが、器のもとではないだろうか。丁寧に、そっと優しく汲まないと、水はこぼれ出してしまう。
その手をそのまま目線より少し上にあげると、感謝の形となる。
そんな感謝の気持ちが、器を成り立たせている。
仏の心を持った漆は、優しくそっとその怒りを鎮め、よろしく頼むよ、と食材に語りかけてくれるのではないだろうか。
我々人間は、食材と、そのように語ってくれる漆に、深く深く感謝したいものだね。

ものづくりに無心になれるのは漆のおかげ

この世に存在するすべてのものは、皆、細かく細かくしていくと、同じ物質で出来ている。
現在、その最小のものは、素粒子(クオーク)と考えられており、それらの組み合わせで、石や水や植物、人間もできている。
ではなぜ、それぞれ形や色・性質が違うのだろうか。
そこに存在するものは、そこにあるための働きがあり、初めて形や色・性質などを成すのである。
形あるもの・色あるものは、その形と色であるため、あり続けるための働きがある。
その働きとは、思いであり、そうありたいという意志である。
すでに存在するものは、そうありたいという意志を持っているから、そこに存在するのである。
何かを新しく作るということは、どういうことなのだろうか。
今まであったものを、組み合わせて別のものを作りだす。
そうありたいという意志を、人が変え、別のそうありたいという意志を持たせることになるのではないか。
人はものづくりの際に、そうあってほしいという意志の為に、好むと好まざるとに関わらず、知らないうちに人自身の思いを吹き込み、永続的に思いを発動させていることになる。
よく「命を吹き込む」とか「魂を込める」などと言うが、それは逆で、そんな大そうなことを考えるから、邪念が生まれ、まやかしが生まれてしまうのではないか。
よくある「使う人に幸せになってほしい」というのは、それを買って使えば、幸せになれる、と言っているようなものであり、毎日大変だ、大変だと思っている作り手が作れば、幸せになってほしいといううわべの思いより、心からそう思っている 大変だ、が込められてしまっているのではないだろうか。
詰まる所、今の自分以上でも以下でもない、そのままの心・思いがものづくりに現れることになると思う。
作り手の思いは、別に一生懸命吹き込まなくても、吹き込まれてしまう、のである。
普通に普通のものを作ることは、本当は非常に困難な作業ということになるだろう。
作り手が、普通に普通のものを作る為には、そのままの自分を人として向上させる以外に、道は無い。
しかし、実は素晴らしい抜け道もある。
それは、作り手が無心になる事である。
ただ、一生懸命もくもくと作る。
そこにはもはや、薄っぺらな思いなど、介在しないのである。
ある禅僧のお話を伺った。
「あなた様は、座禅をすると、無心になれますか」の問いに、「いいや、なれない」
目を閉じてじっとしていると、次々に様々なことが湧水のように脳裏に浮かぶ、と。
「では、無心になれる時は」と問われ、「食事の時です」と答えられた、と。
がむしゃらに食事をしているときは、無心である。好きなことを一生懸命やっているときは、まさに無心である。
なるほど、人は好きなことをやっているときは、がむしゃらに無心で取りくんでいるものである。自分の好きなことを仕事にする理由が、ここにある。
 
無心だと、何がいいのか。
 
無心は、深層心理とつながり、他の深層心理とつながる。
それは、植物・動物・鉱物など、あらゆるものとつながり、地球や宇宙ともつながると、言われている。
無心にも段階があると思うが、作り手の無心と人としての向上とを、両輪のように深めていけば、いつしか作り手の作品に、神仏の意志が吹き込まれることになるかもしれない。

漆を使ってものづくりをしていることに感謝したい。